日夜ハイレベルな修行が繰り広げられているおたく組織、つとむ会の公式wikiです。ユニークな思想を説明します。

中里一の小説『紅茶ボタン』より引用する。ちなみに演説の人物は、口調がコロコロ変わる。

「今からおよそ三十数年前、『マイコン部』や『マイコンクラブ』を名乗る団体が、世界中にいっせいに雨後の筍のように現れた。設立の目的は、機材の貸し借りや情報の交換。けれどそれはあくまで目的にすぎず、なにが起こるかを予言してはいなかった。

 この世に『マイコン部』がいっせいに現れたとき、マイコンに触れるということは、登山のように困難な挑戦であり、作曲のように知的な創造であり、狐狩りのように貴族的な遊びでした。実用性ゼロの高価な機材を書い、間違いだらけの断片的な情報を雑誌や仲間からかき集めて検証し、電車で行けば済むところをわざわざ一輪車で行くような無駄なことを達成する、それがマイコンに触れるということだった。貴族だけが持つことのできる酔狂な遊び心がなければ、遊びどころか地獄の責め苦にも等しい行為、それがマイコンに触れるということだった。

 しかし、『マイコン部』という言葉が背負うのは、この黄金時代だけだろうか? 否、断じて。黄金時代の次には銀の時代があり、青銅の時代があり、鉄の時代があったのだ。今から私はそれを語ろう」

[……]

「初期のマイコンを移動手段にたとえるなら、一輪車のようなものだった。しかし半導体産業は倍々ゲームでマイコンを進歩させた。一輪車はたちまち自転車になり、原付になり、自動車になり、そして今では、まるでドラエもんの『どこでもドア』だ。都市伝説によればビル・ゲイツいわく、『もし自動車がコンピュータのような速さで進歩していたら、自動車は今頃一台二十五ドルになり、しかもガソリン一ガロンで一千マイルを走るようになっているだろう』ずいぶんと控えめな比喩じゃないかね。自動車などしょせん馬車の改良品にすぎんよ。世の中のほとんどのものは、半導体のようには進歩しない。いくら登山技術が進歩したといっても、エベレストに挑む登山家の十人に一人は命を落とす。『どこでもドア』を使って、自宅から山頂までひとっとびの登山、なんてものを想像できるかね? それは登山と呼べるのか? そんな登山のどこに挑戦がある? しかし登山家がどんなに唾棄しようとも、『どこでもドア』が実用化されて誰でも使えるようになったが最後、エベレストの頂は気楽な観光地と化すだろう。かつてマイコンに起こったのは、そういうことなのだよ。

 マイコンという一輪車が自転車そして原付きへと進歩するにつれて、挑戦も創造も酔狂も失われていった! 人々は挑戦者、芸術家、粋人ではなく、消費者、ユーザーになっていった! 消費者とはなにか? うまそうなエサを求めて鼻をフガフガ鳴らしながら地面をかぎまわるブタだ! ユーザーとは何か? ルーザー、負け犬だ!」

[……]

「かつての挑戦者、芸術家、粋人がやってのけたことを、私がこの口でいくら言って聞かせても到底追いつくまい。百聞は一見に如かず。その目で見るがいい、あの高みを」

「野球拳は知っているな? じゃんけんをして負けたほうが服を一枚脱ぐという、ストリップの一種だ。当時のマイコンには野球拳ゲームがたくさんあった。プレイヤーがじゃんけんに何回か勝つと、美女のヌードの絵が拝めるという代物だ。その美女の一人がこれだ」
 演説の人はノートパソコンの画面を私につきつけた。

「北海道出身の十九歳で、名前は『めぐみ』だそうだ」


[…]

「ちなみにこの美女が半裸になると、片方の眉がへの字になる」

「全裸になると両方だ」

私は北海道出身のめぐみさん(19)を見つめた。見つめてどうしたいのかというと、これが人生だ。

「当時の人々は、今となっては想像もつかないほどの困難に挑んでいたの。羞恥の表情を描こうとしても、せいぜい眉をへの字にすることしかできなかった。作者だけじゃない、プレイヤーも困難に挑んだわ。この画像を見ても臆することなくゲームに興じた人は、世界で初めてナマコを食べた人のように偉大ではないかしら」

[…]

「けれど、そんな黄金時代は何年も続かなかった」[…]「これを見て。もう今とあまり変わらない」

[…]

「これ、どんなゲームなんですか」
「プレイヤーが医者になって小学生の女の子を診察して、浣腸したり外科手術したりするゲームだ。最後は卵子を取り出してクローンを作ってクリアだそうだ」
 言われてみれば、画面の左側に描いてあるのは薬ビンの入った棚のようだし、中央で横たわっている人は小学生くらいの女の子のようだった。画面の上半分には「マイ・ロリータ」と書いてあった。
「はあ」
「表示能力が高まったんで絵は細かくなったし、データの容量が増えたんで筋書きは念入りになった。まったくご親切なこと、至れり尽くせりさね。ゲームが細かく念入りになっていくにつれて、難しいことはどんどん減って、かわりに面倒くさいことばかり増えたのさ。難しいのと面倒くさいのの違いはわかるかい? テトリスを発明するのは難しい、超大作RPGを作るのは面倒くさい」

[…]

「面倒くさいことってのは、手分けしてやれるんだ。超大作RPGを作ることを考えてみな、何十人何百人って人数を働かさなきゃいけない。そうなると組織が要る。組織のなかでは、要領のいい奴ほど偉い。プレイヤーだってそうさ。攻略情報を集めたり、人を集めてマルチプレイしたりするには、一にも二にも、要領なんだよ。口八町手八丁で人をあしらう奴がうまいことやりやがる。
 難しいことってのは、そうはいかない。そこいらの馬の骨を何千人こき使ったところで、テトリスは発明できっこないのさ。攻略情報やマルチプレイなんかじゃ、キャラグラの野球拳は楽しめやしない。難しいことってのは、自分ひとりでやるしかないんだ」

[…]

「黄金時代には、みんな、難しいことに挑戦してたのさ。今はもうみんな、難しいことなんか忘れちまった。難しいことなんてのが、この世にあるってことさえ、忘れちまった」

[…]

「銀の時代には『ロードランナー』って言葉があった。マイコンを使ってすることといえばゲームだけ、ってな奴らのことさ。そういうのはダメな奴らだって思われてた。マイコンを使うからにゃ、もっと難しいことに挑戦するもんだ、ってな。
 青銅の時代には、『ビジネスマシン』が幅をきかすようになった。それまでのマイコンは、『ホビーマシン』なんて呼ばれるようになってな。いや、この頃は『マイコン』じゃない、『パソコン』だ。『ロードランナー』なんて言葉も消えた。ロードランナーじゃない奴なんて、雑誌にプログラムを投稿している奴くらいになっちまった。消費者様、ユーザー様、お客様の御世のはじまりさ。
 こうしてマイコン部は、ブタと負け犬のたまり場になった。だが、こいつらにもいいところはあった。こいつらは知ってたのさ、自分たちがブタで負け犬だってことをな」

[…]

「難しいことにのめりこむ者を変人と疎み遠ざける者も多かろう。しかし世の大勢がいかようなろうとも、世の人々の好むところが一人残らずみな同じであったためしはない。難しいことにのめりこむ者を敬い、おのれもその境地に至らんと志す偏屈者もいる。かつてマイコン部に集うたのは、さような偏屈者どもじゃった」[…]「じゃが、マイコンからは難しいことが失せていった。月ごと日ごとにマイコンは使いやすくなり、使い道は広がっていった。人々はマイコンに挑むのをやめ、マイコンを使うようになった。マイコン部に集うた偏屈者どもて同じことよ。ひとたびはマイコンに挑もうとしたものの、志を果たせず、マイコンを使うばかりの仲間とおのれを恥じておった。
 この者どもは志を果たせなんだが、志を忘れはしなかった」
[…]

「『カーゴ・カルト』という言葉があります』」[…]「アメリカ軍のまねをすれば、アメリカ軍のくれた品々がまた海のかなたからやってくる、と信じたのです。[…]青銅の時代のマイコン部にも、一種のカーゴ・カルトがありました。夢中でマイコンに挑む人をまねて、仲間と馴れ合わずにひたすらモニターに向き合う、でもモニターに映っているのは、親切なゲームのきれいな画面なのです。雑誌や仲間から集める情報といえば、プロテクトのかかったゲームをコピーする方法なのです。そこにはなんの困難もなければ挑戦もなく、ただ昔の人々をまねていただけだったのです。まるで無線機のアンテナをまねて木の枝を掲げるように。
 でもそれは、いけないことでしょうか。私はそうは思いません」

[…]

「彼らはその行いで、ひとつの価値観を体現していました。挑戦を敬い、社交を軽んじる、という価値観を。
 マイコンから挑戦が失われて久しいこの鉄の時代にあっても、私たちはこの価値観を体現し、守り抜きます。それこそがマイコン部の活動であり存在理由なのです」

[…]

「マイコン部は社交を禁じています。社交とは、達成すべき目標のない馴れ合い、じゃれあいです。社交をする人には部をやめていただきます。さきほどの三人にもやめていただきました。また部室の平穏を乱すことも禁じています。
 マイコン部は、マイコンという部品についての部ではありません。だってそこにはもう挑戦はないのですから。マイコン部は、マイコン部の体現すべき価値観についての部です。この価値観にのっとった活動は、すべてマイコン部の活動です。そうであるからには、私があれをやれこれをやれと指図することもありません。指図は組織のすることですもの」

引用は以上。

さて、この小説で語られた、マイコンが進歩するにつれて失われた挑戦や創造に酔狂は、現在の"おたく"文化にもそのまま当てはまりやしないだろうか?かつておたくであることは知の海を航海することであった。荒野に飛び出し彷徨うことであった。煉獄の底よりいまだ静まらぬ魂に捧げる叛逆の歌であった。

今やおたくと呼ばれる「ふつう」の人々は、嘆かわしいことにソシャゲだの異世界転生アニメだのVtuberだのルンプロ階級向けのくだらないコンテンツを消費し、ロクにお風呂にも入らずに死んだような人生を送っている。覇気はすっかり失われ、社交の為の社交の為の社交の為に中国共産党のケツ舐めコンテンツを口をだらっと開けて待ち続けては貪る。そして仲間のキモスくんたちとお馴染み吾妻スタイルのニタニタ笑いを浮かべながら、「悪いインターネットだ(ニチャ」とTwitterでフェミニストを叩いて賢ぶるのだ。不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫は消えても残るのはにたにた笑いだが、おたくは悪臭が残って最悪だ。冗談は顔と学歴と女性遍歴だけにして欲しい。

まるで資本主義の豚、レプティリアンの奴隷じゃないか。極めてファルス享楽的な態度である。こういう輩は脳味噌がスカスカだから冷笑ぶって選挙にも行かない犯罪者予備軍であり、ニーチェの言う末人よりも遥かに終わっているネクラ野郎だ。どうせチー牛ばっか食ってンだろ?恋人がいてもどうせブサイクだ。不愉快でゲンナリする。

我々は寝ぼけ眼どもの頭をブン殴ってプラトンの神話的おたくを想起させなければならない。輝かしき挑戦への渇望を歴史の屑籠から救い出さねばならない。
現代哲学において最も偉大な四人といえば、ウィトゲンシュタイン、ハイデッガー、ドゥルーズ、そしてバディウだろう。そのバディウが哲学の役割を「有望な若者を既存社会にとっての破壊的な対抗力に仕立て上げること」と語ったとジジェクが言っていた。まるで哲学が宮崎戦士を育成する為にあるようかじゃないか!

われわれは「黄金時代」のおたくが信じた哲学を、ブレーズ・パスカルのように信じてみよう。マルティン・ルターのように読んでみよう。テトリスを発明するように難しいことだが、体現すべき価値がある。要領だけはいい末人とは逆の道を往こう。
そして末人が見てみぬ振りをしている脅威を、宙ぶらりんにして深刻化し、まやかしを尽く破壊し火を放ち、残骸の上にションベンを掛けてやるのだ。
数学の危機、躍進、背理、詩的言語における震撼、創出された政治における革命と挑発、二つの性の関係における動揺なのである。これらの破壊されやすい過程を、思考のなかで受け入れ、保護するための空間を一部先取りすることによって、また、その単なる可能性さえまだ確固と確立されていない諸軌跡が共に可能であるように配置することによって、哲学は問題を深刻化させる。ハイデガーは「哲学のまさに真の任務は現存在(この場合は歴史的である)を深刻化させ、重くすることである」と書いているが、それは正しい。なぜならば、「深刻化させることはすべての偉大なものが生まれる決定的な基本条件の一つであるから。」「偉大さ」のもつ曖昧さは脇に置くとしても、哲学は様々な真理の可能性に共可能性という概念の負荷をさらに負わせる、と言うことには異論は出ないであろう。哲学は、自らの「深刻化させる」機能によって、類生成的諸過程をそれら固有の思考の次元にではなく、それら共同の歴史性の次元に配置するのである。
哲学は、時代の諸思考がなされる一空間を建設することによって、自らの諸条件の雑多な生成を構成形態化するが、それら諸条件の体系の点からみれば、哲学は、諸真理の過程的実効性とこれらの真理の時間的存在に関する自由な問いの間の橋渡しをする任務があるのである。
アラン・バディウ著 黒田昭信・遠藤健太訳『哲学宣言』

スターリンの共産主義がぞっとするものであったことはわかっているのに、それでも私は英雄的に共産党を信じ、マッカーサーの魔女狩りの犠牲になった人々を讃える。そして歴史の屑籠に叩き込まれた、黄金時代のおたく達についても。一切の敗北を通じて執拗に存続する自由なる永遠の理念。

おたくの逆襲は、つとむ会の蜂起はこれから始まる。グロ資を撃て!激しく撃て!慈悲は無用!
たとえ黄金時代のおたくのように強くはなれなくとも、それでも我らは荒野へとゆこう。

最後にダントンのことばをパラフレーズして筆を置こう「人民が宮崎にならなくて済むように、我々が宮崎になろう」

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