日夜ハイレベルな修行が繰り広げられているおたく組織、つとむ会の公式wikiです。ユニークな思想を説明します。

宮崎指導者ふわぽへ氏による概説

1.オタクアミーゴスにならないために

つとむ会とは、フェティッシュだけのまんがを読みふけり「尊い」だの「推し」だの「巨大感情」だのと、気持ちの悪い奇声を上げたかと思えば、爬虫類のように目のデカい少女を手に入れるために、雀の涙ほどの給料を注ぎ込んでガチャを回し、女に相手にされたことがないからといって、存在しない女へシャドーボクシングを繰り広げ、それに飽きればフェミ叩きに走る、そのくせルンペンプロレタリアート向けの萌え声アバターには卑しくも(ニチャァ…と鼻の下を伸ばす、現在の末人以下と化したポタクへのカウンターとしての「古きよき」「かっこいい」おたく、もう少し具体的に言えば「知的な」おたくを目指すべく切磋琢磨する場です。

おたく第一世代である竹熊健太郎は、プロトおたく族のコミュニケーション様式について、中森明夫が『漫画ブリッコ』誌上のコラムで「おたく」と名付けるより前の1977年、高校生の頃に出会った、膨大な蔵書量と圧倒的な知識・技量を誇る同世代のマンガマニアの質問攻めに太刀打ちできなかったエピソードを持ち出し、
それからというもの俺は多くのマニアと出会ったが、全部とはいわないものの、初対面でこうした「勝負」を挑んでくるやつが多かった。相手の知識やセンスは自分より上か下か、同等だとして、こいつとは組めるか組めないか、好むと好まざるとに関わらず、マニアやオタクを標榜する以上、こうした「儀式」はついて回るのだ
竹熊健太郎『ゴルゴ13はいつ終わるのか?竹熊漫談』
と証言しています。

ここに登場するマンガマニアは確かに博識と言えるでしょう。しかし、このような旧来型のおたくには、少し嫌味を感じざるを得ません。博覧強記なのは結構なことですが、知識量を見せつけることで、相手を萎縮させるマウンティングには陥りたくありません。つとむ会は「古きよき」「かっこいい」おたくを標榜してはいますが、昔のおたくに特有のスノビズムに染まりたいわけではありません。間違っても、岡田斗司夫や唐沢俊一にはなりたくないでしょう。つとむ会が目指す知的なおたくは、勝ち負けを競うバトルからは降り、より良い選択肢を模索すべく話し合う、互いを高め合うべく知を共有する、共に最強の宮崎戦士を目指す併走者でありたい。ブランキから取って彗星楽団という案もありながら、宮崎勤の名をひらがなで冠した、いまいち締まらない、傍から見れば滑稽に思える名称を採用したのは、今後もし党勢を拡大させて、それなりに名の知れた組織になったとしても、自分など「市場をうろついて飯を食うただの人間に過ぎない」の理念を忘れないようにと、戒めの意味を込めたものでもあります。

2.清掃員がぺこーらと結婚するために

大澤聡は『教養主義のリハビリテーション』の中で、価値観の異なる相手とも通じ合うためのことば、端的に言ってしまえば「比喩」を用いて説明できる能力「対話的教養」の重要性を説いています。この「対話的教養」のあり方を身近なところで体現しているものとしては、古来ではことわざ、現代では例えツッコミが挙げられるでしょう。一見すると無関係な物事を抽象化し、共通の特徴を抽出することで、「えっ?」と思う驚きと「なるほど」と思う納得を誘い、それが面白さへと変換されるとき、別角度からの景色が立ち現れるのです。この考え方には確かに魅力を感じます。しかし「対話的教養」のような、別々の文脈を接続させるアナロジー的な深い思考は、残念ながら現在の速すぎるインターネットでは、土台無理な話と言わざるをえないでしょう。少しTwitterを見渡せば分かるように、オタク/フェミ、ネトウヨ/パヨクなど、党派性に囚われた人々は日々を非難の応酬で浪費するばかりです。そこには知性の共通言語が入り込む余地すらありません。彼らは自分の見たいものしか見ていないのですから。各ユーザーに最適化された情報を提示するアルゴリズムは、フィルターバブルの中に人々を放り込み、共感と分断を加速させていきます。
光が多すぎると、目は眩み、失明する。公正さが多すぎると、不公正となる。速度が、光の速度がありすぎると、傲慢となり、すなわち、極地の不動ぶり(inertia polaire)さながらとなる。
ポール・ヴィリリオ『アクシデント 事故と文明』
情報社会では世界時間が新たな重要性をもつようになり、電気通信は隔たった場所の間にも世界時間的同時性を実現するから、距離のリアリティーが決定的に消失してしまう。
ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』
いやそれどころか、地上のすべての人々は、地域市民として自覚するよりも、同じ時間を生きる地球市民として自覚する機会が増えるだろう。コミュニケーション技術の発達によって、人々はそれまで属していた隣接空間や旧来の国民国家(あるいは都市国家)空間から、一瞬のうちに特定の場を持たない地球国家共同体へとスライドするのだ。
ポール・ヴィリリオ『情報エネルギー化社会 現実空間の解体と速度が作り出す空間』

情報技術の発達は私たちの生活を便利なものに変えました。特にコロナ禍の現在においては、リモートワークやオンライン学習のために、ZOOMを筆頭としたビデオ会議が活躍していますし、ANAなどの旅行代理店はVR旅行に手を出し始めています。今更技術の進歩を否定することはできないでしょう。しかし、利便性と引き替えに失われたものもあります。先に引いたヴィリリオの言葉の通り、テクノロジーにより時空間が圧縮された世界では、遠隔現前(テレプレゼンス)の即時性が全てを支配し、局地性は失われることとなったのです。

即時性と局地性の対立は、グローバルとローカルの対立と言い換えられるでしょう。宇野常寛は『遅いインターネット』の中で、グローバルな市場とローカルな国家の対立から、この二つの間を決定的に隔てるものについて考えています。

グローバル資本主義は 「境界のない世界」を作りました。それを受け入れた「Anywhere」な人々は、グローバルな市場のプレイヤーとして「世界に素手で触れている感覚」をもつことができる一方、「境界のある世界」に取り残された「Somewhere」な人々は、労働者階級の稼ぎ方、つまりは賃金労働しか知りません。彼らはリモートワークすら用意されない世界に生きているのです。自分の活動や仕事が世界を変える実感を持てない「Somewhere」な人々は「Anywhere」な人々ほどクリエイティブな能力を持っていません。そんな「Somewhere」な人々がインターネットを介して「Anywhere」な人々になったとき、一体何が起こるか。互いに引用RTで罵り合いを繰り広げるネトウヨやパヨクになる。不祥事を起こした有名人を見つければ、ここぞとばかりに誹謗中傷する。淫夢やsyamu、加藤純一やステハゲの語録を、無関係な場であろうとお構い無しに書き捨てて面白がる。ドラッグや差別、カルト宗教などタブーとされるものを露悪的にネタにし、その過激さを競う。例のアレ民やステチル、オウマーにネトウヨや嫌儲民を兼ねている人が一定数存在するのも至極当然のことです。「Somewhere」な人々が「Anywhere」な人々に変えられたところで、彼らは書くべきもの、そのための言葉を持っていません。宇野の考える「遅いインターネット」の最大の意義は、大塚英志が批評と創作を万人に開くことで、近代的個人を育もうとしているように、書く価値のあるものを持たない人々にも「書く」ことの豊穣な快楽とそのための「書き方」を共有することにあります。「遅いインターネット」を標榜するつとむ会も「自分の物語」を自分の足で走れるように、皆がそれぞれに宮崎コラムを書いていけたらなと思っています。

3.「つとむ」を背負って生きる

現在、最もオタクを敵視している人間は誰かと聞かれれば、それはヤマカンこと山本寛であると即答できるでしょう。京都アニメーション放火殺人事件について、ヤマカンは自身のブログで、このように語っていました。

表現する者は、もはやいつ何時でも襲い来る「狂気」に対する「自衛」の方法を、自分たちで必死に考えるしかないのだ。
ましてやその「狂気」に尻尾振って近づいていては、その危険度は想像以上に増すのだ。
そういう時代となったのだ。 「狂気」がSNSによって無制限に増幅し、拡散される時代を、僕らはもっと厳しい眼差しで捉えなければならない。 表現は、常に死と隣り合わせの時代となった。
その危機意識とトラブルシューティングが早急に周知・整備されない限り、本当にアニメは、壊れる。
もう手遅れかも知れない。
山本寛オフィシャルブログ「僕と京都アニメと、「夢と狂気の12年」と「ぼくたちの失敗」」

このエントリーの中で、京アニに対し「年貢の納め時」が来たなどという表現を用いていますが、それについては到底許されるべきものではありませんし、彼のオタク憎悪が私怨に基づくものでないとは言いきれません。しかし、だからといって、ヤマカンに向けられる怒りがすべて正しいとは思えません。私見を述べさせてもらえば、ヤマカンの反オタクの方向性は間違っていないと思います。ここで語られる「狂気」の正体とはすなわち「推し」「尊い」「〇〇しか勝たん!」といった言葉に宿った一方的な情動、もっと遡ればそれは「萌え」という概念です。そういえば、その「萌え」の元祖と呼ばれた吾妻ひでおは、自身も中心人物として祭り上げられることになった「ロリコンブーム」とそこへ無邪気に戯れる人々に対して、当時かなり批判的でした。
阿島 ロリコンに関して他に何かありますか。
吾妻 えーっと。今の人はアリス趣味の人が多いの。
阿島 ええ、ロリータというよりももっと下ですね。
吾妻 幼女指向。幼女というかアリス!ワシラよりもタチが悪い!
阿島 タチが悪いですか(笑)
吾妻 一生結婚出来ない!(笑)
阿島 おおっ(笑)。そういう人たちを善導しようという考えはありませんか。
吾妻 破滅すればいいと思っている(笑)
『吾妻ひでお大全集』所収「吾妻ひでおインタビュー〈PART5〉ロリータ編」

また『ふゅーじょんぷろだくと 1981年10月号 特集ロリータ/美少女』に収録されたロリコン座談会でも、内山亜紀や谷口敬が自分はロリコンだと主張する中「僕は違います(キッパリ)」と強く否定し、「なんでロリコンがブームになるかわからない。ありゃあブームでもするもんかね」と冷めた態度を取っていました。吾妻はその渦中にいながら、ただ一人「ロリコンブーム」をシニカルな目で見ていました。「萌え」が社会に広がり始めた頃になっても、こうした態度は軟化することなく、アニメ『けいおん!』に否定的な感想を書いたり、菊池成孔との対談で「萌え」に対して苦言を呈したりすることになります。
録画してあったTBSのアニメ「けいおん!」観る。空虚だ。ギャグもナンセンスもユーモアもエログロもストーリーらしきものも何も無い。ちょっとしたフェティシズムがあるだけ。このアニメ作ってる人も観てる人々も不気味。そんなに現実イヤなのか?この気持悪さはメイドカフェにも通じるものがあるな。
exciteニュース 2009/10/18 人気漫画家『けいおん!』を批判「空虚だ。不気味。気持ち悪い」
菊池:今回僕がひとついい仕事をしたなと思ったのは、吾妻さんに対して「元祖萌え」という言葉を使ったところ、それに呼応して吾妻さんの「メイドカフェで『死ね!』と思った」という発言を引き出せたことなんです。
吾妻:慈しむ心が「萌え」だとするならば、秋葉原のメイドはみんな演技しているわけですからね。客もそこに乗っかってにゃんにゃんしてるなんて、今の萌え文化には慈しみがないんじゃないかと思ったんです。まあ、メイドが演技しているのはみんな知っているけれど、アイドルなんかは、対象が純粋かどうかはわからないですよね。もちろん天然な人や、天然な部分はあるのかもしれないけれど。
菊池:萌えの造物主のひとりからすると、現代は荒廃していると(笑)。今のアキバって、カーニバル化していませんか? ヤンキーと同じ。ネコミミなんかもどんどんエスカレートしていって。
吾妻:可愛らしさをどんどんエスカレートさせて商売している感じですよね。ツンデレまでいっちゃうと笑えるからいいんですけどね。かわいいでしょ?という作りの裏側が見えるのは嫌なんですよね。
菊池:産業としての媚態ですよね。AKBのえげつなさもそう。でもそう思うのは、我々がおっさんになっただけ、「普遍的なおっさん化」ということなんでしょうかね。
日刊SPA! 2012/7/11 「萌えの元祖・吾妻ひでおが嘆く!「アグネス・チャンもすっかり敵に…」」

吾妻の「萌え」に対する冷めた態度は何なのでしょうか。その正体に迫るべく、ここからは彼の作品を見ていきます。まずは初期の代表作『ふたりと5人』です。この作品は、美少女ユキ子に一目惚れした主人公オサムが、ユキ子と容姿がそっくりの家族に振り回される話です。ササキバラ・ゴウは『<美少女>の現代史』の中で、『ふたりと5人』を「描かれなかった恋愛まんが」と評します。『ふたりと5人』の主人公オサムはスケベなキャラクターであるが、その欲望は満たされるどころか、欲望のターゲットをあえて引き受けることで、彼を翻弄する、美少女五人組によって弄ばれます。この欲望の充足を阻むものは一体何なのでしょうか。ササキバラはその根拠を「恋愛」に求めます。そして、初回から数話のうちは描かれるも、次第に隠匿されていった、主人公がヒロインに抱く「恋愛」感情が見えない形で障壁となっていると指摘します。好きになってしまったがゆえに、自身の暴力性を自覚してしまい、触れられない。この苦悩は後に『やけくそ天使』の阿蘇湖素子のような過剰な性欲と無敵の身体を持つ美少女を要請することになります。

このササキバラの分析を念頭に置いて、次はロリコンまんがを見ていきます。80年代に起きたロリコンブームは、エロ劇画へ対抗する形で始まりました。エロ劇画とは写実的に描かれたエロマンガのことで、ロリコンまんがはこれに違和を唱えた者たちの手から始まりました。ロリコンまんがと大きく異なるエロ劇画の特徴として挙げられるのが「犯す者/犯される者」という対立項です。エロ劇画には、犯す側の主人公として男性が描かれており、読者は強姦者としての男性主人公に感情移入しながら、女性を犯します。エロ劇画は、代表的なところでは後に映画監督になる石井隆など、独自の表現を身につけた作家を輩出しましたが、彼のラジカルさは見ていたはずの女性に自分が見られていたという視線の転倒にあり、それは「犯す者/犯される者」というエロ劇画の基本構造を前提に確立されたものでした。それに対してロリコンまんがには、ロリコン同人誌を集成した『美少女症候群』をサンプルとして大塚英志が抽出した二つの特徴がありました。一つは犯す主体である男性の不在、もう一つはその代わりに少女を凌辱するメカニックやグロテスクな異生物の存在です。性交という関係は存在せず、ただ不在の男根に凌辱される少女だけが存在するロリコンまんがは、「描かれなかった恋愛まんが」から無敵の美少女に至る、臆病な男たちの抑圧された自意識が「描かれなかった性」として、ねじれた形で表面化したものでした。

「純文学シリーズ」と題された、吾妻による一連のロリコンまんがは、上記のねじれた構造を自覚した上で描かれていました。実際にその作品をいくつか見てみると、『帰り道』では、性的なことをしようとした男が触手に変わるのですが、変異後は少女の言うことを聞くようになり、それどころか彼女を男から守ろうと動くようになります。『水仙』では、インポの漫画家が美少女にセックスしてもらうのですが、男性の快楽はほとんど描写されません。逆に彼女の絶頂こそが丁寧に描かれます。『水底』では、山あいを流れる小さな川の底で暇を持て余す影のような少年が、美少女と出会い性交するのですが、少年は彼女とはそれきりで、夏が終わりを告げても、同じ場所で待ちぼうけるようになります。『海から来た機械』では、史羽という少女について来た機械のヤドカリのような生物が、彼女の望みを果たすために彼女そっくりの姿に変身して、想い人である先生と彼女の望まない強引な手段で結ばれようとします。美少女と結ばれたいという欲望は、去勢されたメタモルな機械を媒介にすることで、報われないのならいっそ美少女と同一化したいという倒錯した、肥大化したエゴのような欲望へと変質し、無意識に彼女を傷つけてしまいます。ここではその暴力性が描かれています。

「純文学シリーズ」は、不能さを積極的に引き受けた男性が美少女に支配してもらう、それゆえに決して結ばれることはないという構造を切実に表現したものでした。吾妻のまんが世界は、男がその不能さを受け入れるからこそ、そんな弱ささえも包み込んでくれる美少女を求めますが、そもそも自身の暴力性の自覚から出発しているため、その想いは決して報われることがありません。「純文学シリーズ」で少女のモノローグが物語を進行させることや、行為を描くにしても、読者の身体感覚に訴えかけようとせず、ただ淡々と描いていることにもそれは表れています。以上の分析からとりあえずの結論を述べさせてもらえば、吾妻のロリコンブームや「萌え」に対する冷めた距離感、それは無自覚なエピゴーネンたちが拡大させていき、やがてヤマカンが「狂気」と呼ぶようになるものへの、抵抗感の現れだったと言えるでしょう。

吉本隆明は『共同幻想論』において「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」という三つの幻想を提唱しました。自己幻想とは文字通り自分だけの世界、対幻想とは家族や恋人など、個人と他者との関係を信じる幻想、共同幻想とは国家などの集団で共有される幻想のことです。本田透は吉本の論を受けて、恋愛資本主義社会でルサンチマンに苛まれ鬼畜化(今日的に言えばインセル化)しないための解毒剤に自己幻想としての「萌え」を処方し、ここからモテ社会を離脱したオルタナティブな新しい社会を立ち上げようじゃないかと提言しました。しかし、本田が「個人による信仰」「ひとりだけの宗教」と形容するプラトニックな「萌え」のあり方は結局のところあまり追求されず、彼の思惑とは裏腹に、市民権を得たオタクは「狂気」を媒介にしたマチズモ的な共同体を取り結ぶようになりました。

しかしなぜ本田の計画は夢に終わり、ヤマカンに「オタクに群れる強さを教えてしまった責任をとる」と言わせるような事態になってしまったのでしょうか。その要因は様々に考えられますが、大きくはSNSにあると思います。本田が「萌え」による新たな共同幻想の構築を夢想することができたのも彼の著書『電波男』や『萌える男』の上梓が、Twitterサービス開始より一年前の2005年、ソーシャルメディア時代到来の前夜だったからでしょう。そこで今度は『遅いインターネット』に再び戻り、『共同幻想論』のSNSの状況下での捉え直しを見ていきます。

宇野は吉本の提示した三幻想を現在のソーシャルメディアの基本構造に当てはめて21世紀の共同幻想論を考えます。自己幻想はFacebookに象徴されるプロフィール、対幻想はLINEに象徴されるメッセンジャー、共同幻想はTwitterに象徴されるタイムライン、という風に。吉本はこの三幻想をそれぞれ反発し合う形で独立するという前提で考えていましたが、現在の三幻想が過視化されたSNSはむしろ互いに接続しながら、自己幻想を肥大化させています。タイムライン(共同幻想)に漏れ出すいいねやリプライ(対幻想)もリツイート(共同幻想)もすべて自己幻想の強化にしかなりません。三幻想の境界が融解し、自己幻想の記述を余儀なくされる今、問題になるのはいかにして「自立」するか、つまり自己幻想をマネジメントしていけるかどうかです。そしてその自己幻想と上手く付き合う方策が「遅いインターネット」で「走りながら考える」ことにあるのは前章で説明した通りです。

宇野とヤマカンの論に拠れば、SNSが普及した社会に生きる現在のオタクは、自己幻想のコントロールに失敗し、「狂気」を無制限に増幅させている人たちと言えるでしょう。そもそもオタクの二次元萌えに、一方的に対象へ向かう自己幻想の面があったことは否定できません。不本意にも「萌え」の萌芽を生むことになった吾妻ひでおには、そのことに対する自覚と苦悩があり、反対に本田透は「萌え」という自己幻想を徹底することで信仰にまで高めようとしましたが、現在のオタクはどうでしょうか。彼らは吾妻の言う通り、対象への慈しみなど持ち合わせておらず、本田の考えるほど萌えに真剣で崇高な存在でもありませんでした。
現在のオタクは情動の受け皿をアニメや美少女キャラ、あるいはVtuberへ求めるようになりました。彼らは自分たちの中の「尊い」や「巨大感情」あるいは「推し」が理想的に表現される、自己幻想が投影されるスクリーンを求めました。ヤマカンの「アニメはオタクのためにあるという主客逆転が起きており、彼らは自分の思い通りに行かないと支配欲を剥き出しにして粘着する」という旨のオタク批判やVtuberが炎上する度に起こる、あの娘はそんなことしない、あいつが悪いと些細なことで糾弾合戦を始めるオタクの学級裁判はこのことを顕著に示す例でしょう。しかし、こうした好きを求めるあり方が全て悪かったとは言えません。pixivやオンライン小説、ニコニコ-ボカロ文化など、その中で生まれたものもあるからです。しかしそれは「表現するべきもの」を潜在的に持っていた人が、それを表現できる媒体をたまたま見つけたからで、上手く表現する言葉も能力を持たない「Somewhere」な人々が発露するそれは支配欲に塗れた「狂気」でしかないのです。ヤマカンはこうしたオタクはアニメを壊すから皆殺しにしろと言いますが、そうしたところで「狂気」自体はなくなりません。居場所を変えて、第二第三の青葉を生むだけです。宇野はそうした「狂気」をコントロールし「Anywhere」に適応する方法として「遅いインターネット」を提唱しますが、見たいものだけ見ていたい人もいるでしょう。「遅いインターネット」は「狂気」との付き合い方に関する提案の一つであって、全員が「狂気」を飼い慣らせるようになるための完璧な答えは未だにないのです。
切ったら血が出るアニメーション
ふしぎだね げんじつ
さわって感じるイミテーション
ゆびさきのしんじつ
アーバンギャルド「アニメーションソング」
ビデオテープの壁に囲まれた
ダンボールのなかの人生
病気があれば何でもできる
箱のなかさ箱のなか
何処まで行っても箱のなか
箱のなかも箱のなか
何処から何処まで箱のなかだよ
アーバンギャルド「箱男に訊け」

アーバンギャルドは右翼的なファッションを取り込みながらも鳥肌実や椎名林檎のようにガチの方へ呑まれなかった稀有なアーティストですが、それは彼らの根底に、内省を徹底することで外部への遡行を目指すという問題意識が横たわっているからです。そのことが分かりやすく表現された曲に「アニメーションソング」があります。ここでは現実を「切ったら血が出るアニメーション」と形容し、痛みを介して、捏造された幻想≒アニメの外部へ出ることを歌います。こうした問題意識は他の曲にも引き継がれており、例えば「箱男に訊け」では、安部公房の『箱男』を下敷きに、少年Aや宮崎勤、かい人21面相を取り上げ、箱のような閉鎖空間で外部を断ち、妄想に耽溺していては、いずれ犯罪者になるぞと批判します。

私たちは永山則夫や宮崎勤、加藤智大やへずまりゅう、渡邊博史や青葉真司とほとんど変わりません。「狂気」のコントロールに失敗すれば、誰でも犯罪者へと変貌します。ヤマカンの言う「オタクは犯罪者」とはそういうことです。「つとむ会」は宮崎勤の名を冠した組織です。宮崎勤とは1988〜1989年にかけて起きた幼女誘拐連続殺人事件の犯人です。実際のところ彼は大しておたくではなく、むしろおたくになりたいがために不規則にモノを集めていたというタイプの人間なのですが、コレクションの極々一部であるホラー、ロリコン、おたく的な内容のビデオや雑誌、まんがをメディアが誇張して報道したことで、おたくバッシング・差別を招来することになりました。これは事実無根の噂話に過ぎないのですが、とあるアナウンサーがコミックマーケットを前に「ここに10万人の宮崎勤がいます」と評したという逸話は20年代の現在にあっても語り継がれています。宮崎勤はおたくにとって忘れ去りたい負の歴史と言えるでしょう。しかし、あの痛みをなかったことにして、クールジャパン以降、おたくの負のイメージを払拭するかのごとく現れ、いつの間にか普及していた、カタカナのオタクなんぞをノーテンキに名乗っていて良いのでしょうか。そうした臭いものに蓋をして綺麗なものしか見ない態度こそが、「狂気」を増幅させてきたのではないでしょうか。確かに現実は汚いです。自分が飢餓ゲーム社会で奴隷扱いされる99%の一人に過ぎないという事実を思えば、暗澹たる気持ちになります。そうした醜い現実を前に、美しい世界へ救いを求めることも、実際に救われたことも、おたくならば誰しも一度や二度ならずあることでしょう。それ自体は悪いことではありません。しかし、だからといって、癒しや心地良さにばかり浸っていれば、いずれ京アニを燃やすのです。今の汎化したオタクには自身の趣味に対する後ろめたさはなく、自分の好きを堂々と謳っています。それ自体は歓迎すべきことです。しかしそれと並行して、自分に都合の悪い意見は誹謗中傷という型に押し込め、批判を封殺しようとする空気が蔓延しています。それではいつまで経っても「私」を「書くこと」ができないままです。大塚英志は『文学国語入門』の中で、誰かに書かれることで「私」の輪郭を見つけ出そうとした宮崎勤、「私」というキャラクターを奪われたことに怒った加藤智大、既存の作品からの書き換えに「私」の発露を信じた青葉真司を取り上げ、彼らに「私」をきちんと表現して「他者」や「社会」への回路を開くためのツール「近代文学」を提示します。それは「私」を「疑う」ところから始まるものです。「尊い」という感情を持つこと自体は別に良い。ただ、それを躊躇いなく発露する前に、一旦俯瞰して考えて貰いたい。時代が移り変わろうと、おたくがキモいことに変わりはないのですから。「つとむ会」はこのキモさを忘れないために、「狂気」に呑まれて独善的にならないために、オタクが大手を振って歩くこの時代に、あえて「つとむ」を名乗ります。オタクが人を殺さないために、宮崎勤というスティグマを胸に刻みます。それがひらがなのおたくの矜恃というものです。おたくの不断の闘争はここから始まります。

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